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講談の演目

矢頭右衛門七やとうえもしち

赤穂義士伝一席物忠義親孝行義理人情忠臣赤穂

別題: 右衛門七母の自害、最後の大評定

赤穂城の大評定で殉死を申し出た十六歳の少年と、その覚悟を支えて自ら命を絶つ母を読む一席。

一席物(一話で完結する話)。系統は赤穂義士伝(赤穂浪士の討ち入りにまつわる話。本伝・銘々伝・外伝に分かれる。)

赤穂義士伝』の一席(銘々伝)

あらすじ

浅野内匠頭が切腹してお家取り潰しが決まると、赤穂の城中では、藩に残った財産を家来へ分けることになる。金を受け取って姿を消す者もいたが、籠城や殉死を唱える者も多かった。判断はすべて城代家老の大石内蔵助に委ねられ、元禄14年(1701年)4月14日に大評定が開かれる。

内蔵助は切腹するつもりでいた。その場に十六歳の矢頭右衛門七がいる。父の長助は亡くなっており、残された母が困るだろうと内蔵助は案じるが、右衛門七は自分より年下である内蔵助の息子主税を引き合いに出して殉死を申し出る。今着ている死装束は母が縫ったもので、母も覚悟しているという。内蔵助はいったん九寸五分を抜くが、鞘に納めて仇討ちの考えを打ち明ける。一同は納得して血判した。

母に仇討ちのことを話せない右衛門七は、評定の結果はお家再興を願うことになったと説明する。しかし母は、息子の指先に血がにじんでいるのを見てすべてを悟る。仏間で自ら命を絶ちながら、企てを教えてほしいと最後の頼みをする。右衛門七の相談を受けた内蔵助が駆けつけて仇討ちの覚悟を話すと、母は大願成就を祈りながら息絶えた。討ち入りの当日、右衛門七は母の死装束を身につけて本懐を遂げる。

成立と背景

貞享3年(1686年)生まれの右衛門七こと矢頭教兼は、大石主税(良金)に次いで年若だった。

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講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 講談事典瀧口雅仁丸善出版2023年

上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

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