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山内一豊の妻やまのうちかずとよのつま
別題: 出世の馬揃え、山内一豊出世の馬揃え
貧しい侍が名馬を買えずに帰ると、妻が鏡の裏に隠していた金を差し出す。その馬で信長の馬揃えに出て認められる一席。
一席物(一話で完結する話)。系統は武芸物(剣豪・武芸者の話。)
あらすじ
天正2年(1574年)の弥生半ば、岐阜城下の加納の町で馬市が立っていた。一頭の駿馬を連れた馬喰の前を、身なりのみすぼらしい若い侍が通りかかる。値を尋ねると金三枚。手が出ないまま帰るこの侍が、織田信長の家来で百五十貫取りの山内伊右衛門一豊である。
一豊が妻の千代に、昔から勇士の功は馬にあるというが貧乏暮らしでよい馬が買えない、と話す。千代は鏡を持ってきて、その背に貼ってあった紙をはがす。嫁いでくるとき、山内の家に大事があったら使うようにと母が持たせた金五枚だった。一豊はその金で馬を買い求め、夫婦で喜ぶ。
その年の秋、信長から馬揃えを催すという達しがある。貧しい山内は出られまいと人々が噂するなか、柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉といった面々が馬を進め、その最後に一豊が現れる。信長が誉めると、一豊は馬を手に入れるまでの次第を話す。感心した信長は、その馬に「鏡栗毛」と名を付けた。
翌年の長篠の合戦では、この馬のおかげで一豊は功を立てる。のちに土佐の大名となるが、それは妻千代の助けがあってのことであり、千代は今も賢女の鑑としてたたえられている。
成立と背景
山内一豊(1545年ごろ〜1605年)は尾張の生まれで、豊臣秀吉と徳川家康に仕えた実在の武将。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、土佐の大名になった。名の正しい読みは「やまうちかつとよ」だが、講談では「やまのうちかずとよ」とする。正室の見性院(1557年〜1617年)の本名も「千代」とも「まつ」とも伝わるが、講談では「千代」としている。
現在も女性の講釈師をはじめ多くの演者が読み、『山内一豊の妻』『山内一豊出世の馬揃え』などの題が使われる。
読み方の違い
同じ演目でも、演者によって細部が変わります。分かっている違いを並べています。
- 土佐で与えられた石高を、あらすじの本文では二十四万石、解説では二十万石としている。
ほかの芸能でも演じられます
この演目は浪曲でも演じられています。同じ題材でも、 芸能によって筋の運びや読みどころが変わります。
- 浪曲「山ノ内一豊の妻」
貧しい侍の山ノ内が、妻の用意した金で窮地を切り抜けます。講談の『山内一豊の妻』と同じ人物を扱いますが、妻の名も金高も舞台も異なります。
同じ山内一豊を扱うが筋立てが違う。講談は妻を千代とし、鏡の裏の金五枚で名馬を買って織田信長の馬揃えに出る話。『浪曲事典』が収める初代天中軒雲月の一節は、妻を梅ヶ枝、金を三十五両とし、舞台は墨股河原である。(講談事典・浪曲事典)
この演目を調べる・聴く
- 国立国会図書館サーチ
この演目の本・速記本・レコードの目録。誰が演じ、いつ出たものかが分かります。
- 歴史的音源(れきおん)
戦前を中心とした録音。同じ演目を誰が吹き込んだかが並びます。
- 歴史的音源(自宅で聴ける分だけ)
上の検索を、インターネット公開されている音源だけに絞ったものです。
講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。
出典
- 『講談事典』瀧口雅仁、丸善出版、2023年
上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

