このページは公開前の確認用です。URLを知っている人だけが見られる状態にしてあります。 サイト内のメニュー・サイトマップには出ておらず、検索にも登録されません。 内容を確認したうえで公開に切り替えます。
出世の春駒しゅっせのはるごま
別題: 愛宕山梅花の誉れ、出世の階段
馬術の達人曲垣平九郎が、将軍徳川家光の命により、他の武士が失敗し命を落とした愛宕山の急な石段を馬で登り降りし、梅の枝を手折って褒美を得る一席。
一席物(一話で完結する話)。系統は武芸物(剣豪・武芸者の話。)
『寛永三馬術』の一席(序開き)。
あらすじ
寛永11年、二代将軍秀忠の命日に増上寺へ参詣した三代将軍徳川家光は、帰途に愛宕山の中腹で紅白入り交じって咲く梅を見つけ、家来に一枝を手折ってくるよう命じた。梅のある山上へは86段の急な石段を馬で登らねばならず、家来たちは尻込みし、家光自らが馬で乗り入れようとするが家来に押しとどめられる。
その後、松平伊豆守の計らいで、諸家から馬術の心得がある者を出させて石段を馬で登らせ、梅を取ってくることになった。3人が挑むが、いずれも7合目あたりで馬が棹立ちになり、人馬もろとも転落して命を落とす。居並ぶ者が恐れをなす中、四国丸亀藩主生駒家の家臣曲垣平九郎盛澄が名乗り出た。平九郎の乗る馬は骨と皮ばかりに痩せ、片足の調子も悪く、家光は「汚ない馬じゃな」と評したという。
平九郎は馬を励ましながら坂の下と上を何度も往復させて慣らし、自らが操るのではなく馬自身の意志で上らせるように仕向けて、一気に石段を駆け上がり山上の梅の枝を手折った。下りでは急坂に驚いて後ずさる馬を、手綱の締め方と体重のかけ方だけで一歩ずつ斜めに歩ませて降ろした。将軍からは、徳川の武勇が衰えていないかを試すためだったと告げられ、その場で名刀を授けられた。
成立と背景
『寛永三馬術』の一席。
曲垣平九郎を筑紫市兵衛・向井蔵人とともに主人公とする長編武芸講談の一つで、序開きにあたる一席とされる。
曲垣平九郎は実在の人物とされるが生没年は不詳。讃岐丸亀藩主生駒壱岐守高俊に仕えた馬術家で名を盛澄といい、後に尾張藩で九百石を得た。生駒家が御家騒動で滅びた後は越前の松平忠直に仕えたが、忠直も罰せられたため浪人したと伝えられる。
この逸話は寛永11年(1634年)に三代将軍徳川家光が愛宕山を通った際の出来事とされるが、史実としては備前藩士市森彦三郎が愛宕山の石段を馬で登ることを果たした記録があり、曲垣平九郎はこの彦三郎がモデルと考えられている。
五代目宝井馬琴(1903年〜1985年)の演出が知られる。
読んできた人
五代目宝井馬琴
この演目を調べる・聴く
- 国立国会図書館サーチ
この演目の本・速記本・レコードの目録。誰が演じ、いつ出たものかが分かります。
- 歴史的音源(れきおん)
戦前を中心とした録音。同じ演目を誰が吹き込んだかが並びます。
- 歴史的音源(自宅で聴ける分だけ)
上の検索を、インターネット公開されている音源だけに絞ったものです。
講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。
出典
- 『講談 知っておきたい日本の古典芸能』瀧口雅仁 編著、丸善出版、2019年
上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

