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宝の入船たからのいりふね
別題: 紀伊國屋文左衛門、紀伊國屋文左衛門 宝の入船
難船と借金で先代を失った紀伊國屋文左衛門の跡取りが、荒れる海を渡ってみかんを江戸へ運び、大金を手にして紀文大尽と呼ばれるようになる一席。
一席物(一話で完結する話)。系統は世話物(町の人々の暮らしと事件を描く。白浪物・侠客物・三尺物などはこの中の分けかた。)
『紀伊国屋文左衛門』の一席。
あらすじ
紀州和歌の浦で廻船問屋を営む紀伊國屋文左衛門は、一時は5艘の船を使って手広く商いをしていたが、そのうち4艘を難船で失い、残る1隻も借財の返済にあてて質に入れる結果となった。これを苦にした文左衛門は病の床についてこの世を去り、息子の文吉が跡を継いで二代目の文左衛門を名乗った。
ある年、紀州のみかんは大豊作だったが、秋の荒天で船を出せず、上方では値が下がる一方、江戸では品薄で値が上がっていた。ここに商機を見た文左衛門は、1000両の元手を工面しようとするが当てがない。困り果てていたところ、妻の実家である神官のもとを頼り、船の修理代とみかんの仕入れ代を借りることに成功する。
船乗りを集めるにあたり、文左衛門は以前から世話をしていた元船乗りの仙八に声をかける。危険を承知の仕事に他の船頭たちは尻込みするが、給金として片道50両を示されると態度を変え、5人の仲間を連れて引き受けた。全員が死を覚悟し、白い死に装束を身につけて船に乗り込む。
船出の日は折しも大時化で、文左衛門は自ら錨綱を断ち切って後戻りできない覚悟を示した。荒天の中、船は雷と高波にもまれ、一時は全員が気を失うほどの状態に陥るが、やがて風がおさまり、船は相模の海まで流れ着いていたことがわかる。一同は無事に武蔵国品川沖へ入り、江戸の人々は嵐の中で運ばれてきたみかんに沸き立った。みかんを売りさばいて大金を手にした文左衛門は、その後家族で江戸に移り住み、材木問屋を開いてさらに大きな財を築くことになる。
成立と背景
同じ時代の豪商としては大坂の鴻池善右衛門や江戸の奈良屋茂左衛門が知られており、紀伊國屋文左衛門もそれに並ぶ一人として名を挙げられている。
紀伊國屋文左衛門は紀伊国出身の実在の商人で、生まれた年ははっきりしないものの、享保19年〈1734年〉に没したとされる。ただし人物についてはわからない点も多く、なかば伝説化した人物だとされる。
本題に出てくる一節は、俗謡やそれに合わせて踊る「かっぽれ」でも歌われる文句だという。
みかん船の逸話のあと、文左衛門は大坂で疫病が広がっていることを耳にすると、江戸で仕入れた塩鮭を買い集めて再び大きな利益を得たとされる。その資金を元手に材木問屋を開いたが、のちに火災で店を失って商売をやめたとも言われ、この点については諸説がある。
この演目を調べる・聴く
- 国立国会図書館サーチ
この演目の本・速記本・レコードの目録。誰が演じ、いつ出たものかが分かります。
- 歴史的音源(れきおん)
戦前を中心とした録音。同じ演目を誰が吹き込んだかが並びます。
- 歴史的音源(自宅で聴ける分だけ)
上の検索を、インターネット公開されている音源だけに絞ったものです。
講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。
出典
- 『講談 知っておきたい日本の古典芸能』瀧口雅仁 編著、丸善出版、2019年
上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

