浪曲の演目

赤穂義士伝あこうぎしでん

義士伝講談が原作吉良義央赤垣源蔵大石内蔵助元禄江戸義理と人情実在の人物が題材忠義敵討ち続き物

別題: 義士伝、忠臣蔵

元禄15年(1702年)の赤穂浪士の討ち入りを題材にした続き物です。浪曲では一話完結の銘々伝・外伝が読まれることが多い演目です。

続き物(何席にも分かれて語られる長い話)。系統は義士伝

あらすじ

元禄15年(1702年)、赤穂藩の浪人47人が吉良義央の屋敷を襲撃した事件を題材にします。講談は事件の本筋を追う「本伝」、義士ひとりひとりを描く「銘々伝」、周辺の人物を描く「外伝」に分かれ、浪曲・講談とも一話完結の銘々伝・外伝が読まれることが多い演目です。

討ち入りの場面だけを単独で演じることは現在では少なく、浪曲では銘々伝の最後に討ち入りの経緯を組み込む構成が一般的だと『浪曲論』は記しています。

銘々伝・外伝の集まりで、全体を通したあらすじではなく、一席ごとの内容を挙げています。

主な一席

10

このほか、題名だけが挙げられている一席: 「刃傷松の廊下」、「田村邸の決別」、「岡野金右衛門、恋の絵図面取り」、「大石妻子別れ」、「大石東下り」、「南部坂雪の別れ」、「天野屋利兵衛」、「俵星玄蕃」

成立と背景

浪曲では、桃中軒雲右衛門が明治40年(1907年)6月から20日間、本郷座で「武士道鼓吹」と題して義士伝を中心に読み、大劇場の興行を成り立たせました。これが浪曲が劇場で演じられるようになる転換点になっています。

『浪曲論』の著者は、忠臣蔵が長く支持された理由を、判官贔屓・団体戦・散っていく者への共感・献身・勧善懲悪の5点に整理しています。また「大石山鹿護送」に出てくる臆病な武士「近藤源四郎」は史実の「進藤源四郎」にあたり、名が変化した経緯を著者自身が調べています。

新作も作られており、『浪曲論』の著者自身が書いた「赤馬の殿様」は、吉良義央が矢作川に堤防を築く話です。東家浦太郎が口演し、弟子の東家孝太郎が受け継いでいます。

演じてきた人

桃中軒雲右衛門、その芸を継いだ東家楽燕、楽燕門下の東家三楽。楽燕の孫弟子にあたる国本武春は「南部坂雪の別れ」「大石山鹿護送」などを持ちネタとし、没後は国本はる乃が「大石山鹿護送」を継いでいます。初代天中軒雲月、二代目吉田奈良丸も義士伝を十八番としていました。東家孝太郎は「赤馬の殿様」のほか「大石主税、父と子」なども演じています。

ほかの芸能でも演じられます

この演目は講談でも演じられています。同じ題材でも、 芸能によって筋の運びや読みどころが変わります。

講談では、事件の本筋を読む「本伝」、四十七人それぞれの逸話を読む「銘々伝」、事件に関わった外部の人物を読む「外伝」に分かれる。浪曲では一話完結の銘々伝・外伝が読まれることが多い。『浪曲事典』によれば、浪曲の義士伝は明治の中ごろまであまり評判にならず、二代吉田奈良丸と桃中軒雲右衛門が得意にしてレコードで広まってからのものである。(講談事典・浪曲事典)

この演目を調べる・聴く

浪曲は演者によって筋や節の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 浪曲論[増補改訂版]稲田和浩彩流社2022年

上の本に書かれている事実をもとに、文章は書き起こしたものです。本の文章は転載していません。

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