浪曲の演目

国定忠治くにさだちゅうじ

侠客伝講談が原作国定忠治上州天保義賊義理と人情博打打ち子守唄続き物

上州の博徒・国定忠治が、飢饉に苦しむ領民に施しをして追われ、赤城山を下りるまでを読む続き物です。「赤城の山も今宵限り」の場で知られます。

続き物(何席にも分かれて語られる長い話)。系統は侠客伝

あらすじ

国定忠治は本名を長岡忠次郎といいます。父の忠作は上州で百姓をしていましたが病に倒れ、忠治は馬子となって家計を助けます。十七歳のとき、隣村の紋次という親分の跡目を受けて博徒の道に入り、清水の巌鉄や板割の浅太郎を子分に持ち、島村の伊三郎を討って名を売り、六十人余りの子分を率いるようになります。

天保の大飢饉のとき、厳しい年貢の取り立てに苦しむ領民のため、寺院を襲うなどして大金を奪い、それを窮民に配ったことから役人に追われ、赤城山へ身を潜めます。ある日、大田の町へ下りたところを捕方に囲まれますが、浅太郎の伯父で忠治に恩義のある目明しの勘助の助けで山へ戻ります。

忠治は浅太郎に盃を返そうとします。老い先短い勘助の跡目を浅太郎に継がせ、逃がしてくれた恩に報いるための計らいでしたが、浅太郎は勘助の首を取り、忘れ形見の勘太郎を連れて戻ってきます。これ以上みなに迷惑をかけられないと、忠治は「赤城の山も今宵限り」と山を下ります。

天保11年(1840年)2月、忠治は上州吾妻郡の大戸の関所を破り、子分たちと別れます。その後は信州権堂の宿で山形屋藤蔵という悪徒を倒し、越後の百姓親子を助けたりしながら大坂まで逃げますが、上州へ戻ったところで関八州の取締りに捕らえられ、嘉永3年(1850年)12月21日に磔となります。

あらすじは『講談事典』の記述にもとづきます(講談での読み方)。

主な一席

3

成立と背景

巡業中の初代宝井琴凌が聞いた話を、一席にまとめた作品とされます。赤城山での勘太郎をめぐる一件は、浪曲や歌謡曲の「赤城の子守唄」として知られています。

演じてきた人

『浪曲事典』の「浪曲名作抄」は「国定忠治」を収め、中山道の唐丸破りの場を載せています。同書の目次では演者を浪花愛吉としています。

同書は、二代目玉川勝太郎の「笹川の花会」と並べて、国定忠治のうち「山形屋」に人気が集まったため、演者がほかの読み物をやりたくても客が承知しなくなった例として、この演目を挙げています。

ほかの芸能でも演じられます

この演目は講談でも演じられています。同じ題材でも、 芸能によって筋の運びや読みどころが変わります。

この演目を調べる・聴く

浪曲は演者によって筋や節の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 講談事典瀧口雅仁丸善出版2023年
  2. 浪曲事典安斎竹夫 編・著日本情報センター1975年

上の本に書かれている事実をもとに、文章は書き起こしたものです。本の文章は転載していません。

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