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幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえ
町奴の頭領幡随院長兵衛の生涯を描く。旗本奴水野十郎左衛門との対立の末、和解を装って招かれた屋敷で命を落とすまでを追う一代記。
連続物(何席にもわたって続く長い話)。系統は侠客物(人入れ稼業・元締めの話。)
あらすじ
長兵衛は幼い頃、伊太郎という名で呼ばれていた。父塚本織部は肥前唐津藩主寺沢家の家臣であったが、主家の没落後は浪人となって諸国を流浪し、妻に先立たれたのち伊太郎を連れて江戸へ出て、まもなく病で世を去った。残された伊太郎は江戸の八百屋久兵衛に引き取られて育つ。ある日、時の政治を風刺する判じ物の絵を鮮やかに解いてみせたことから才気を見込まれ、本多家の家臣桜井庄右衛門に引き取られて若党となり、常平という名を与えられた。
常平は、庄右衛門の子庄之助の供として剣術道場に通ううち、他の門人の技量を見抜く目の鋭さを剣術指南石川軍刀斎巌流に認められ、みずから手ほどきを受けて腕を上げ、23歳で免許皆伝を得た。ある時、庄之助が誤って隣家へ蹴鞠を打ち込んだ際には、常平が自分の落ち度だと偽って詫びに出向き、隣家の主に打たれ辱められても耐え忍んで主人をかばい、庄右衛門を感激させている。
後年、常平は本名の塚本長兵衛を名乗り、江戸の町奴の頭領となった。同名の悪玉法華長兵衛に伝家の刀を奪われる一件や、旗本奴の頭水野十郎左衛門の一党との対立が続く中、町方に人気のあった力士桜川が、旗本方の贔屓した力士を土俵で破った意趣返しとして闇討ちに遭い落命する。長兵衛は仇討ちを決意するが、水野家の老臣主水に、屋敷へ攻め込めば水野家が取り潰しになると涙ながらに説かれ、みずから隠居させると約した主水の言葉を受けて、用意していた死装束を切り捨て、矛を収めた。
その後、十郎左衛門は和解を装って長兵衛を屋敷に招く。長兵衛は供を連れず、ただ一人で赴き、まな板の上に座らされて斬る真似をされても顔色を変えなかった。湯殿へ入るよう勧められて入浴したところ、十郎左衛門は槍を手に庭先で待ち構え、合図とともに事が起こり、長兵衛は水野の屋敷で命を落とした。没後200年、250年にあたる年には、縁のある人々によって菩提寺源空寺で法要が営まれ、大きな石碑も建てられたと伝わる。
本の章立て
52章『講談名作文庫』(講談社)の本文に出てくる見出しを、本の並びのまま挙げています。この巻の章は、話の中の場面を指しています。筋はここには書いていません。印の付いたものは、文字の読み取りに確信が持てなかった題です。
- 上が盲で、下が痛い
- ころ柿流とはよく申した
- 泥鼠になった槍術指南
- こりゃあ、男のしやっ面を
- 常平の身柄を申し受く
- これは近ごろ珍しきご所望
- 町奴長兵衛となる
- 三味線堀の不意討ち
- 誓いの盃を進せよう
- 高窓の間夫というのはたれだ
- 真っ平ごめんを蒙りやす
- こりゃあ大した代物だ
- このけんか身どもが預かった
- じゃあ達者で暮らせよ
- 身内にしても文句はあるめえ
- 一ペん借りたら百年目
- 鬼みてえな貸元野郎だっ
- 鍔先二寸男と男の掛け合い
- 長兵衛を取り囲んだ白刃の襖
- 町奴にゃあ女房はいらねえ
- にわかやもめ二十五人
- 町にのさばる旗本奴白柄組
- 暑中に戸を閉ざして大火鉢
- 筍掘り!カンラカラカラ
- 野郎なぐりやがったな
- 劇中劇にしちゃあ荒すぎる
- 堪忍するのも男の修行だ
- もんどりうってドウと落馬
- はい、逆さ大関でごんす
- 裸のくせに縮緬だとよ
- 恨みの一番!片や黒鷲、片や桜川
- 金的いとめた桜川関
- ピカッ闇に閃く二尺の稲妻
- もう勘弁ならねえ
- 江戸市中に誘いの貼り札
- 罷り出でたる水野の用人
- 長兵衛の油断をつけっ
- やっ、まさしく長兵衛の駕籠
- 玄関に横付けになった死骸
- 水野屋敷から迎えの使者
- 千万無量、別れの盃
- 気負い立っ血気の面々
- 女侠おきんの心尽くし
- 怪奇な鍾馗の置物
- 三十六鱗爼上の鯉
- 因縁ふかき神田川
- 名も芳し、源空寺の夫婦塚
- さあ、水野の屋敷へ斬り込めつ
- 親分の敵、思い知ったか
- 先たつものは金たせ
- 五代目幸四郎乗り出す
- 義陜のちょん髷長兵衛
この読み物に含まれる一席
1席それぞれ独立した演目として高座にかかります。本に「『幡随院長兵衛』の一席」と 書かれているものだけを並べています。
- 芝居の喧嘩幡随院長兵衛の配下である町奴たちが芝居見物中に起こした些細ないざこざから、旗本奴の一派までも巻き込む大規模な喧嘩騒ぎへと発展していく話。
成立と背景
本文末尾は、長兵衛の没後の顕彰の経緯を伝える。嘉永2年(1849年)の二百回忌は、同じ源空寺に墓があり偶然にも同名だった村田長兵衛(ちょん髷長兵衛)が営み、明治32年(1899年)の二百五十年忌には、落語家談洲楼燕枝らが世話人となって、学者大槻如電の筆による石碑を建てたという。
この演目を調べる・聴く
- 国立国会図書館サーチ
この演目の本・速記本・レコードの目録。誰が演じ、いつ出たものかが分かります。
- 歴史的音源(れきおん)
戦前を中心とした録音。同じ演目を誰が吹き込んだかが並びます。
- 歴史的音源(自宅で聴ける分だけ)
上の検索を、インターネット公開されている音源だけに絞ったものです。
講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。
出典
- 『講談名作文庫(真田幸村・水戸黄門・大岡政談・柳生旅日記・赤穂義士銘々伝・太閤記・鼠小僧次郎吉・いれずみ奉行・弥次喜多道中記・寛永三馬術・清水次郎長・塚原卜伝・大久保彦左衛門・雷電為右衛門・左甚五郎・幡随院長兵衛・田宮坊太郎・国定忠治・一休和尚漫遊記・伊達騒動・天保六花撰・快傑自来也・由井正雪・荒木又右衛門)』講談社 編、講談社、1976年(電子版 2013〜2014年)
上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

