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講談の演目

陽明門の間違いようめいもんのまちがい

芸道物一席物細工義理人情意地職人江戸

飛騨の名工に見いだされた甚五郎が、日光東照宮陽明門の造営で腕を認められる一方、妬んだ相手との争いで片腕を失い、左甚五郎と呼ばれるようになる話。

一席物(一話で完結する話)。系統は芸道物(役者や芸人の話。役者伝ともいう。)

あらすじ

足利将軍家の家来の子として生まれた利松は、父の死後、母と共に飛騨高山に移り住む。十二歳の冬、雪で取った自分の顔の型を木に彫っていたところを、飛騨に住む名工墨縄に見いだされて弟子となり、甚五郎利勝と名を改める。

成長した甚五郎は修業の旅に出て、江戸に着いた頃には三十歳になっていた。浅草諏訪町の大工政五郎のもとに身を寄せて働くうち、三代将軍家光が命じた日光東照宮陽明門の普請が二年たっても終わらないと知り、甚五郎たちは日光へ助勢に赴き、三か月で陽明門を完成させる。

ところが、もとの普請を請け負っていた大工の栗原遠江は甚五郎を妬み、命を狙う。弟子の滝五郎は自ら手を下すと申し出て仲間に甚五郎の気を逸らさせ、その右腕を切り落とす。持ち帰った右腕を前に、滝五郎は義理を通すため遠江の左腕も切り落として甚五郎に届け、自らは切腹して果てる。遠江は甚五郎に詫びる。のちに家光の命で上野東照宮の扉に龍を彫る際は左を甚五郎、右を遠江が手がけ、以後左手一本で仕事を続けた甚五郎は「左甚五郎」と呼ばれるようになった。

成立と背景

講談の甚五郎物には、のんびりとした名人肌の人物と、気性の激しい人物という二通りの型があるとされる。『陽明門の間違い』は後者にあたる。落語の甚五郎物(『竹の水仙』『三井の大黒』など)は前者の型で、雰囲気が異なる。

神田愛山が伝えた話を神田松之丞が教わったもので、甚五郎物は浪曲にも伝わっており、現在は浪曲にしか残っていない演目もあるという。

この演目を調べる・聴く

講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 講談入門神田松之丞/編・文 長井好弘/写真 橘蓮二河出書房新社2018年

上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

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