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講談の演目

三村の薪割りみむらのまきわり

赤穂義士伝一席物変装細工職人忠臣江戸

別題: 薪割り

薪割り屋に身をやつした浪士が、刀研ぎの名人と縁を結び、看板の字を書き残していく一席。

一席物(一話で完結する話)。系統は赤穂義士伝(赤穂浪士の討ち入りにまつわる話。本伝・銘々伝・外伝に分かれる。)

赤穂義士伝』の一席(銘々伝)

あらすじ

赤穂浪士の一人・三村次郎左衛門包常は、次郎兵衛と名のって薪割り屋として歩き回っていた。ある日、吉良邸に近い本所緑町で、刀研ぎの名人と呼ばれる竹屋喜平次光信から呼び入れられる。薪を割ると、その割り口を気に入られ、毎日来るように請われる。

数日後、竹屋に一枚の板がある。店の看板にしたいが書き手がいないという。浅野の家中で名筆とされた三村は、この世に何か残したいと考え、「御刀研上処竹屋喜平次光信」と書かせてもらう。

しばらく姿を見せなかった三村は、大石内蔵助から討ち入りに使う名刀・彦四郎貞宗を渡されると、袴姿で竹屋を訪ね、自分は二本松丹羽家の家臣・小松次郎左衛門であり、帰郷の前に江戸で名高い研ぎ師に研いでもらいたいと頼む。研ぎ上がった刀を手に店を出るとき、庇を支える桑の腕木を見つけ、その刀を振り下ろして硬い腕木を真っ二つにした。

本懐を遂げて引き揚げるとき、竹屋は小松次郎左衛門と名のっていた三村を見つける。三村は名を偽ったことを詫び、刀の切れ味を伝えて去っていく。その後、三村の書いた看板と、預けていった永正祐定の刀、そして桑の腕木を見ようと多くの人が竹屋を訪れた。この話は前田家の耳にも入り、竹屋光信は前田家に召し抱えられた。三村包常は元禄16年(1703年)2月4日、水野の屋敷で切腹した。

成立と背景

三村包常は寛文7年(1667年)に赤穂で生まれたが、その役は台所役人という、四十七士のなかで最も身分の低いものだった。

この演目を調べる・聴く

講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 講談事典瀧口雅仁丸善出版2023年

上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

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