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講談の演目

湯水の行水ゆみずのぎょうずい

軍談一席物意地合戦忠臣駿河実説

仲の悪い二人の家来が、寒中の行水で湯と水を張り合い、三方ヶ原でともに討ち死にする一席。

一席物(一話で完結する話)。系統は軍談(合戦を読む。講談のもとになった種類。)

あらすじ

鳥居四郎左衛門忠広と成瀬藤蔵正義は、ともに徳川家康の家来だが、たいへん仲が悪い。元亀3年(1572年)12月の寒い日、鳥居は隣の屋敷に住む成瀬の姿を見かけると、中間に湯を入れた盥を庭へ運ばせて行水を始める。そして、隣の腰抜け侍とは違い、いつ敵に首を取られてもよいよう、こうして首を洗っているのだと、わざと聞こえるように言う。

成瀬は中間に水を汲んだ盥を用意させ、真の勇者は水で行水しなければならないと言い放つ。それを聞いた鳥居は氷の張った行水につかり、成瀬のほうは、手拭いではなく縄へ砂を付けて首を洗うという。ついには刀でやり合うが、そこへ酒井左衛門尉忠次が現れ、どちらかが死んだらどうやって敵と戦うのだと諭し、二人は静かになる。

同じ年の12月22日、天竜川を渡った武田軍は浜松へ向かうと見せて北へ進路を変え、三方ヶ原を通ろうとする。徳川軍が迎え討とうとしたところには武田の大軍が控えていた。鳥居と成瀬はそれぞれ敵の兜首を三つずつ取るが、再び戦場へ向かった際に成瀬は討たれ、それを聞いた鳥居も敵陣へ向かって命を落とす。

成立と背景

主人公の鳥居忠広も成瀬正義(1535年〜1572年)も、ともに実在した徳川家康の家臣である。成瀬は三方ヶ原の戦いで討ち死にせず生き残り、のちに出家して戦死者を供養したという言い伝えも残る。

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講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 講談事典瀧口雅仁丸善出版2023年

上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

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