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講談の演目

唐人お吉とうじんおきち

幕末明治物連続物意地義理人情女の活躍実説

下田の芸者きちが、米国総領事ハリスの相手をするよう奉行から命じられ、断りきれずに引き受けたのちの半生を読む。

連続物(何席にもわたって続く長い話)。系統は幕末明治物(幕末から明治を舞台にした話。)

あらすじ

天保12年(1841年)、伊豆の下田に生まれた斎藤きちは、十四歳のとき地震の被害に遭い、幼なじみで大工の鶴松と再び出会う。鶴松はお吉のために家を建て直すが、お吉は暮らしのために芸者となる。のちに二人は互いの気持ちを打ち明け、夫婦になることを決める。

そのころ、米国総領事タウンゼント・ハリスの滞在先が、下田の玉泉寺と決まる。強い開国要求に対し、幕府は下田奉行に懐柔策を命じた。奉行が考えたのが、お吉にハリスの相手をさせることだった。お吉は、芸者は体を売らないこと、夫がいることを理由に断るが、牢に入れられ、鶴松が拷問を受けたことから引き受ける。

毎晩、玉泉寺へ通うようになると、外国人と交わっているという話が広まり、「唐人お吉」「ラシャメンお吉」と呼ばれるようになる。お吉は酒に浸る暮らしになった。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれ、ハリスが帰国するとお吉は芸者に戻るが、いつしか下田の町を離れる。

年を経て、横浜の海岸通りを歩いていた鶴松が、新内流しをして歩くお吉と行き会う。二人は下田でやり直すことにする。しかし夫婦の仲は戻らず、家を飛び出したお吉は稲生沢川に身を投げる。

成立と背景

映画や小説になり、浪曲では『お吉物語』として演じられる。講談では神田翠月が『ラシャメンお吉』の題で演じた。

斎藤きちは実在の伊豆下田の芸妓で、天保12年(1841年)に生まれ、明治23年(1890年)に没した。物語では入水したことになっているが、実際は転落死とされる。

ほかの芸能でも演じられます

この演目は浪曲でも演じられています。同じ題材でも、 芸能によって筋の運びや読みどころが変わります。

この演目を調べる・聴く

講談は演者によって筋や読み方の細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。

出典

  1. 講談事典瀧口雅仁丸善出版2023年

上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

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