幸助餅こうすけもち
力士のひいきに身代をつぶした男を、力士が救う人情噺。
あらすじ
大阪阿波座で雑穀屋を営む幸助は、初代梅ケ谷藤太郎という関取に心から入れ込んでいました。梅ケ谷が難波新地の興行で大阪へ来てあいさつに回っていたとき、道頓堀でたまたま幸助と行き会います。
幸助はいつもと様子が違い、「もうおまえには会えないかもしれない」と口にします。梅ケ谷は東家という料理屋へ幸助を連れて行き事情を尋ねますが、幸助は河内へ出向くからだと偽り、本当のことを語りませんでした。
幸助は五円あまりの勘定を自分で払ったうえ、梅ケ谷に五十円もの祝儀まで渡してしまいます。実のところ幸助は相撲に注ぎ込みすぎて店をつぶし、江戸堀二丁目の裏長屋で暮らす身になっていたのでした。
餅屋を始めようと、女房のお玉が以前奉公していた富田屋から六十円を工面してきましたが、その大半となる五十五円あまりを幸助は梅ケ谷への祝儀に使ってしまいます。これを知ったお玉は怒り、夫婦げんかになりました。
見かねた家主の庄右衛門が仲裁に入り、代言人の植松に頼んで、梅ケ谷に祝儀を返してもらえるよう掛け合ってもらいます。しかし梅ケ谷は、祝儀として受け取った金は返せないと断りました。仕方なく町内の人々が金を出し合い、幸助に餅屋を開かせます。
夕方になると梅ケ谷が力士を大勢引き連れて幸助の店へ現れました。餅米二百俵と砂糖二百樽、さらに祝儀五十円を差し出し、こう告げます。「祝儀は返せませんが、ひいきになりました旦那様の店開きに、お祝いに上がりました。どうぞこれは納めてください」
力士がそろって祝いに駆けつけたこの出来事は、たちまち町じゅうの評判になりました。困窮のすえに開いた幸助の小さな餅屋は、こうして幸助餅と呼ばれる大阪名物のひとつに数えられるようになったといいます。
成立と背景
大阪名物として知られる幸助餅の由来を語る人情ばなしで、寄席だけでなく講談としても演じられてきました。喜劇作者の曽我廼家五郎がこの噺を舞台の喜劇に仕立てて上演したこともあります。
この演目を調べる・聴く
- 国立国会図書館サーチ
この演目の本・速記本・レコードの目録。誰が演じ、いつ出たものかが分かります。
- 歴史的音源(れきおん)
戦前を中心とした録音。同じ演目を誰が吹き込んだかが並びます。
- 歴史的音源(自宅で聴ける分だけ)
上の検索を、インターネット公開されている音源だけに絞ったものです。
落語は演者によって筋やサゲの細部が変わります。ここに書いたあらすじは一つの形で、 実際の高座とは違うことがあります。
出典
- 『増補 落語事典』東大落語会 編、青蛙房、1979年
上の本で確認した事実をもとに、文章は寄席ミルが書き起こしたものです。本文の引き写しはしていません。

